宗旦槿と「懈怠比丘不期明日」

宗旦槿の一番咲きです。
でも、虫にやられたのでしょうか、花びらに傷みがあります。

宗旦槿

宗旦(そうたん)で時折思い出すのは、裏千家「今日庵」の由来となったと云われる「懈怠比丘不期明日」。
読みは(けたいのびくみょうにちをきせず)と読まれています。
この文言について、過去の二つのブログ記事から、それぞれ一部を抜き出してみました。

◎今日庵発行の冊子には、茶室「今日庵」の由来が次のように記してあります。

◆今日庵は宗旦が正保五年七十一歳で不審庵を江岑宗左に譲り、自らが後庭において隠居するために建てた茶室である。
本席が出来上がると同時に師事する清巌和尚を請じて席名を乞わんと招待したのだが、約束の時間になっても和尚の消息がない。待ち倦んだ宗旦は、他の約束を果たしに外出した。その後に来訪した清巌和尚は、新席に入り、
「懈怠比丘不期明日」
と壁面に記し、家人の引留めにもかかわらず帰ってしまった。程なく帰宅した宗旦はその意を感じ、師僧に対する不遜の態度を恥じ、改めて大徳寺に参向し、深く今日の自分の行為を謝し、清巌和尚の書き留めていったことばにちなんでその席を今日庵と命名されたのである。◆

◎表千家同門会の機関誌「同門」には、MIHO MUSEUM館長の熊倉功夫氏が連載している「千宗旦」に関する記事の中に、宗旦と大徳寺禅僧・清巌宗渭(せいがんそうい)-大徳寺170世-にまつわるお話があります。

◆清巌と宗旦ということになると、すぐ思い浮かぶのは今日庵の庵号となった墨蹟の逸話です。清巌和尚の大きな横物で「懈怠比丘不期明日」と認めた墨蹟があります。同じ大きさで宗旦が「邂逅比丘不期明日」と書いた二幅が今も今日庵に残されています。なぜこの二幅の墨蹟が生まれたのか。ここから先は伝承として伝わっている話で、古い文献があるわけではありません。約束の時間に遅れてきた清巌和尚が「怠けものの坊主に明日は期待できない」と我身になぞらえて宗旦の境地を尋ねました。すると宗旦は「只今あなたにお目にかかったのだから明日に期待するものはない」と切り返したのです。いかにも禅僧らしい機知に富んだ応酬です。明日ではなく今日只今、ということで「今日庵」という庵号が誕生したと伝えられます。◆

*「同門」記事より

「懈怠比丘不期明日」(けたいのびくみょうにちをきせず)
「邂逅比丘不期明日」(かいこうのびくみょうにちをきせず)

「今日庵」のルーツとして良く語られるのは、もっぱら清巌和尚の墨蹟の方で、宗旦の墨蹟はあまり触れられてはいないようです。
なお、二幅とも現在は裏千家「今日庵」が所蔵していますが、元は二幅とも住友家にあったものだそうです。