尾張名所図会・反魂香の図

ここ数日、気温が高めで穏やかな日が続いていますが、明日は二十四節気のひとつ「大寒」。

寒さが最も厳しくなる時期を迎えることになりますが、予報でも来週は寒波到来とか…。

でもでも、二週間後には節分、そしてあくる日の2月4日は立春。

♪春よ来い♪早く来い、といったところです。

香道一口メモは「反魂塚」の後半です。

しばらくの間、頭の片隅から消える事のなかった「反魂香」から、これで開放されるかと思うと嬉しくなります。(^O^)

振り返ってみると、資料収集と読みにあてた時間はそれほど多くはありませんが、まぁ、それなりに充実した体験だったかもしれません…。

香道一口メモ・114【反魂塚②

信夫の地へ下向中の橋本中将は、萱津の庵の薬師が藤姫の守り本尊であることを知り、姫の死を聞いて悲嘆する。哀れに思った正法寺の和尚は「反魂香」をたいて一心に念じると、その香の煙の中に藤姫の姿が現れ、思わず言葉をかけようとすると、姫の姿は煙とともに消えたという奇異で哀れな伝説。いらいこの塚を反魂塚と呼ぶようになった。

※『尾張名所図会』(天保15年)にある「反魂香の図」です。

・楕円で囲まれた箇所の歌は、次のように読みました…。
反魂香の心をよめる・従三位行能
新続古今「みてもなほ身をこそこがせ時の間の 煙のうちにきゆる面かげ」

※『尾張名所図会』は「反魂香塚」と題して以下のように記しています。(部分)

「(前略)…又、正法寺縁起にしるせるは、当寺開祖東岩和尚この浦に草庵を結びて有りしが、光仁天皇寶亀十一年奥州信夫(しのぶ)の里より若き夫婦(夫を恩雄(やすたか)、妻を藤姫といふ)上京せんとここまで来たりしに、藤姫病にかかりて遂に身まかりぬ。病中に一首の和歌をよみて恩雄に残せリ。
忘るなよ我身きえなば後の世のくらきしるべに誰をたのまん
と、恩雄これを見て悲歎のあまり東岩(とうがん)和尚を請じて営みをなし、その身は剃髪して弟子となり、藤姫の塚の辺に庵を結び、菩提をぞ弔ひける。此の時、恩雄は廿一才、藤姫は十六才也。法名を大空了覚信女といふ。其後、天応元年橋本中将関東に下向の折から、粟手の森の古蹟(こせき)などここかしこ遊覧したまふに、彼恩雄法師が庵を窺い、本尊の薬師佛いと尊く、庵主も若き身にして殊勝に念佛せしを感じ、法師が身のなるはてをも思いたまふに、法師もしかじかと語れば、彼以て頓(とみ)に色を失ひ、泣く泣く語りたまふは、其藤姫こそ我奥州に左遷ありし時、賤(しず)の女の後にやどせしわが一子也。我帰洛の後、音信(おとづれ)もせざりしが母は死して其子汝に嫁し、共に我を慕い上京せんとせしに、ここにて身まかりし事のはかなさにとて、遂に其師の東岩和尚を請じ反魂香を焚き、秘法をも修せしかば、香烟の中に二八の女性忽然と顕はれけるを、近づきて言葉をかわさんとせしかど烟と共に失せにけり。彼以は悲喜の泪をしぼりつつ、
魂を反す匂ひのありながら袖にとまらぬむかし悲しき
と詠じたまひければ、法師も
おもひきや花のすがたの香を留て烟の中に見なすべしとは
とぞ詠じける。夫より此の塚を反魂塚と呼びそめし也。…(後略)」

(注1)寶亀十一年=780年、(注2)二八=16(2×8=16)

※因みに、反魂香にまつわる同様の物語には、七寺(ななつでら)縁起によるものもあります。こちらは、是廣(これひろ)と光丸(みつまる)の物語になっていて、阿波手の浦で焚く反魂香の図と歌が添えられています。