蘭奢待・真清田神社の蘭奢待

尾張一宮にある真清田神社の宝物館には、香木「蘭奢待(らんじゃたい)」が展示ケースの中に収められて、一般公開されています。

4月29日、舞楽神事の見学に合わせて宝物館を訪れ、展示されている蘭奢待を眺め、付随する箱や文書、そして解説プレートを見てきました。

蘭奢待の香木は、目測で長さ約2cm、幅2mm程で、灰褐色のように見えました。(一般撮影禁止)

照明の関係なのか、視力の問題なのか、木の筋などははっきり確かめることができませんでした。

蘭奢待は、詰め物をした透明なガラス瓶の中に上から見えるように収めてあり、元はその中に入れていたと思われる竹筒とともに、茶道具を入れておくような古めかしい桐箱の中に和紙を敷いて、その上に置いてありました。

箱の横に置いてある箱蓋には、蘭奢待と大書してあり、左下隅には清起の名が認められています。(真清田神社四代目神主は佐分清起)

文書としては、関長安の署名と花押がある「蘭奢待奉納状」と、佐分栄清の署名と花押がある「覚書」が額の中に収められていました。

解説プレートとしては、以下の三枚が用意されていました。
①蘭奢待
②関長安
③関長安蘭奢待奉納状

蘭奢待関連の展示物は以上です。

展示されている香木「蘭奢待」が、正倉院に収められている黄熟香(蘭奢待)から截り出されたものかどうかについて、私見は後ほど記したいと思います。

※上の写真は正倉院の黄熟香(蘭奢待)で、長さは156cm、重さは11.6kg。切り口は三十余箇所、截香(せっこう)した跡に貼られている札3枚に書かれている名は、右から足利義政、織田信長、明治天皇。

■「真清田神社之栞」にある蘭奢待の解説■

「真清田神社之栞」に記してある蘭奢待の解説は次の通りです。

所蔵する蘭奢待(らんじゃたい)は正倉院の名香で一宮城主関長安の奉納状と初代神主佐分栄清覚書とともに竹筒に納められています。奉納状には、長安が当社に蘭奢待を寄進した経緯として、南都の大衆神人が織田信長を歓待して蘭奢待を截り、信長はその一部を近臣村井貞勝に分け、つぎに貞勝は配下の長安に与え、長安は自身が穢れた家には置き難いとして郷里の一宮真清田神社に奉納した経緯を認めてあります。また覚書には栄清がこれを点検した際、蘭奢待は存していなかったことを書き留めています。

上記の解説文は、額の中に収められている「関長安蘭奢待奉納状」と「覚書」の内容をまとめたものとなっています

これによりますと、截りとった蘭奢待の一部は、織田信長→村井貞勝→関長安→真清田神社へと渡ったことになりますが、『信長公記』の「蘭奢待切り補らるゝの事」の記述に村井貞勝の名はありません。

天正二年(1574)三月二十八日に信長が東大寺・正倉院の鍵を開けさせ、多聞山城に運んでから截りとった蘭奢待は、四月三日に京都・相国寺で俄かに催された茶会(特別な「御会」)において、利休や堺の豪商茶人にも分け与えられたと云われていますので、当時、信長の信任厚く京都所司代の職にあった村井貞勝も拝領する機会があったものと推測されます。

「関長安蘭奢待奉納状」によれば、貞勝の配下にあった関長安が真清田神社に奉納したのは天正二年(1574)五月吉日となっていますから、信長が截りとってから二ヶ月のうちに、信長→村井貞勝→関長安を経て神社に奉納されたことになります。

一宮城主であった関長安は、天皇の御蔵・正倉院を開けて截り取った蘭奢待を所持することを良しとせず、穢れた家は持つべきではないとして、父の成重(長重)が真清田神社の神職でもあったことから、神社へ献じたものと思われます。(※関長安=関長政、別名として小十郎など)

◆「関長安蘭奢待奉納状」

※『一宮市史』(昭和14年)より

◆読み
信長五幾内まで自在の砌、多門山へ御遊覧の時、南都大衆・神人合わせて馳走を為すと云う。蘭奢侍の名香、御神物として之を切り給えと云々。即ち、信長之を切る。其の少分、村井民部大輔貞勝に下され、貞勝また関小十郎右衛門長安に分け下す。穢家安置し難きにより、即ち、当社明神に献じ奉るのみ 。
関小十郎右衛門尉
長安 (花押)
天正二年甲戌五月吉日

(注)五畿内=大和、山城、和泉、河内、摂津の五か国。

その後、真清田神社初代神主・佐分栄清が点検した際、書状はあったものの蘭奢待は存在していなかった旨を記した「覚書」の日付は寛永八年(1631)閏十月吉日となっています。
従って、奉納してから点検までの半世紀以上(57年)もの間、蘭奢待の存在有無は神社の森の中に消えてしまったことになります。
なお、「覚書」が記された寛永八年は、初代尾張藩主・徳川義直が真清田神社の大修理を敢行し、積年の荒廃を回復した年でもあります。

●「覚書」
|此蘭奢待當社御上葺之
|砌大宮殿ノ内ニ在之各開之
|令拝見処包紙添状計
|而名香無之候為後日
|如此耳
|    神主山三郎
|    栄清(花押)
|寛永八年カノトノ未閏十月吉日

●読み
此の蘭奢待、当社御上葺の砌、大宮殿の内に之在り。各之を開き、拝見せしむる処、包紙・添状計。而して名香之無く候。後日の為に、此の如きのみ。

(注)カノトノ未=干支の辛未。

さらに、それから一世紀後の享保18年(1733)、三代目神主・佐分清円が記した『真清探桃(ますみたんとう)集』にも蘭奢待は存在していなかった旨が記されているといいます。(佐分清円が延享2年(1745)に記した『尾張国名蹟畧志考』にも同様の記載があると聞いています。)

ところがです。

昭和14年(1939)に発行された『一宮市史』(一宮市役所著作兼発行者)には、「不思議にも今は長五分程の香木が現存している」と記述されています。

そして、昭和59年(1984)には真清田神社宝物館が完成し、現在のように関連文書と共に香木・蘭奢待は展示ケースの中に収まっています。

「無い」と文書に記されていた蘭奢待が、昭和になってから現れたところに、真清田神社蘭奢待をめぐる謎と特徴がありそうです。

■真清田神社の蘭奢待-有るような無いような物ー■

真清田神社宝物館2階に現在展示されている蘭奢待が、信長が截りとった蘭奢待の一片なのかどうかという問題は、それなりに関心が持たれるところではあります。

正倉院・蘭奢待の一片が臣下に分け与えられ、さらに真清田神社に奉納されることになった経緯は、文書にある通りで筋書きに無理はありません。

問題は、栄清の「覚書」で無いとされたこと、さらに清円の『真清探桃集』で無いことが追認されたものが、昭和の時代になってから現れ、宝物館に収まるまでの経過にあると云えます。

三つの可能性が考えられます。
(ア)奉納されてから栄清が点検するまでの間に、既に一片は消え失せていた。
(イ)実は存在していたが、誰かが大切に保管していて一片は見つからなかった。
(ウ)実は存在していたが、何かの理由で一片は無いことにしていた。

個人的に興味があるのは(ウ)の方で、栄清が点検して蘭奢待は無いとした「覚書」が書かれた年は寛永八年(1631)で、丁度この年は初代尾張藩主徳川義直が荒廃していた真清田神社の大修理を敢行した年でもあるということです。

周知のように、尾張徳川家は家康の「駿府御分物」の香木を大量に所蔵していることで知られていますが、義直も蘭奢待に興味を持っていたとしたら、荒廃していた時代を考えて神社側が敢えて「無いことにした」ということも考えられなくはありません。(恐れ多いことですが…)

また、由緒ある蘭奢待だけに、誰かが大切に保管していたという(イ)の可能性も、考えられなくはありません。(これまた恐れ多いことです)

いずれにせよ、無いとしたものが有ることになったわけですから、真清田神社の蘭奢待をめぐるミステリーは俄かにロマンに満ちてくることになります。

神社関係者の言葉にもありましたが、まさに「有るような、無いようなモノ」という表現がぴったりの蘭奢待と云えそうです。

現代の科学技術(例えば、ガスクロマトグラフィー法)をもってすれば、正確に成分分析のチャートを得ることは可能で、正倉院の蘭奢待のそれとの比較から、一応の判別は可能と思われます。
(注)大阪大学の米田該典先生の研究論文『全浅香、黄熟香の科学調査』(正倉院紀要第22号)、香道志野流機関誌『松隠』23号の講演会再録は示唆に富んでいます。

勿論、保存状態(保管場所の明暗など)によって成分には違いが生じ、また蛍光灯などの光に長期間さらされた場合には成分が失われることも考えられ、部位の違いも含めて完全な一致は望めないところであります。

巷間には、蘭奢待と云われている数多の香木がある様に聞いていますが、成分分析を行なったという話は聞いたことがありませんし、そもそも誰も行なおうとはしません。

真清田神社の関係者からも、「成分分析などを行なうつもりはありません」との言葉を聞いていますが、私自身も全く同感で、成分分析は意味のないことだと思っています。

蘭奢待をめぐるロマンは、まさに「秘してこそ花」と思っているところです。

神社関係者のお話として、「文書も付随している蘭奢待なので、学術調査がもっと為されてもいいはずなのに、それがないということは云々」という言葉は、妙に耳の奥底に残っています…。

いずれにせよ、自身の目で真清田神社の蘭奢待を確かめ、何を感じるかが最も重要なことと云えるのではないでしょうか。(^O^)

■資料集■

【資料1】「解説プレート」①②

ショーケースの中にある「解説プレート」①②には次のような解説がなされています。(③「関長安蘭奢待奉納状」は略)

①蘭奢待
蘭奢待は聖武天皇期に東大寺に齎(もたら)された香木で造られており、勅許を得て切り出したのは織田信長の他に足利義政・徳川家康しかいない。信長は天正2年(1574)3月28日東大寺の蘭奢待を大和の多聞山城まで運ばせ、1寸8分ほど切り出している。「天下の権をもつもの、天下の名器を持つ」とした信長の天下武人の決意が伺える。

②関長安
蘭奢待は信長よりその家臣村井貞勝に分け与えられた後、真清田神社に奉納された。長安の祖父康正が享禄2年(1529)現在の本町三丁目に一宮城を築城し、長重、長安と3代に渡って居城とし、真清田神社の神職も務めた為、真清田神社に関氏3代の奉納品は少なくない。尚長安は天正12年(1584)長久手・小牧合戦で戦死し、天正19年(1591)には一宮城は廃城になった。

【資料2】『信長公記』-蘭奢待被切捕の事

『信長公記』(巻七-蘭奢待被切捕の事-)はネット上でも原文を見ることができます。(国立国会図書館デジタルコレクション)
校注・桑田忠親『信長公記(全)』(人物往来社)による本文は以下の通りです。
===

蘭奢待切り捕らるゝの事

三月十二日、信長、御上洛。佐和山に二、三日御逗留。十六日、永原に御泊り、十七日、志賀より坂本へ御渡海なされ、

相国寺に初めて御寄宿。南都東大寺蘭奢待を御所望の旨(むね)、内裏(だいり)へ御奏聞のところ、

三月廿六日、御勅使、日野輝資殿、飛鳥井大納言殿、勅諚(ちょくじょう)として、黍(かたじけ)なくも、御院宣(いんぜん)なされ、則ち、南都大衆頂拝致し、御請(うけ)申し、翌日、

三月廿七日、信長、奈良の多門に至りて御出で。御奉行、塙九郎左衛門、菅屋九右衛門、佐久間右衛門、柴田修理、丹羽五郎左衛門、蜂屋兵庫頭、荒木摂津守、夕庵(せきあん)、友閑(ゆうかん)、重ねて御奉行、津田坊、以上。

三月廿八日、辰の刻、御蔵開き侯へ詑(おわ)んぬ。彼(か)の名香、長さ六尺の長持(ながもち)に納まりこれあり。則ち、多門へ持参され、御成りの間、舞台において御目に懸け、本法に任せ、一寸八分切り捕らる。御供の御馬廻、末代の物語に拝見仕るべきの旨、御諚にて、奉拝の事、且つは御威光、且つは御憐愍(れんびん)、生前の思ひ出、黍(かたじけな)き次第、申すに足らず。一年、東山殿召し置かれ候已来(いらい)、将軍家御望みの旁(かたがた)、数多(あまた)これあると雖(いえど)も、唯ならぬ事に侯の間、相叶はず。仏天の加護ありて、三国に隠れなき御名物めし置かれ、本朝において御名誉、御面目の次第、何事かこれにしかん。

===
(注)蘭奢待(らんじゃたい)=東大寺とも呼ばれる。黄熟香。/辰の刻=午前八時前後。/御蔵=正倉院。/六尺=約182cm。/一寸八分=約5.5cm。/東山殿=足利八代将軍義政。/三国=日本・唐(中国)・天竺(インド)。/本朝(ほんちょう)=日本。/何事かこれにしかん=これに及ぶものがあるだろうか(いやない)。

※上記の現代語訳は、中川太古訳『信長公記(上)』(新人物往来社)の中にあります。

【資料3】全浅香・黄熟香

大阪大学・米田該典先生の研究論文『全浅香、黄熟香の科学調査』(正倉院紀要第22号)にある全浅香・黄熟香は、それぞれ「紅塵」「蘭奢待」とも云われている香木です。(数値データは正倉院紀要より)

・全浅香「紅塵」:長さ105.5cm、重さ16.65kg

※畑正高『香三才』(東京書籍)より。

・黄熟香「蘭奢待」:長さ156cm、重さ11.6kg

※平成23年「正倉院展」チラシより。