泪の茶杓・茶人の刀

名古屋・徳川美術館では毎年恒例の「尾張徳川家の雛まつり」展が開催されています。(~4/7)


※ロビーに飾ってある現代の雛人形(お店もバッチリPR)だけは撮影OKです。親王は江戸時代のように向かって右に飾られています。

昨日は、美術館所蔵の千利休作「泪の茶杓」の特別公開(2/23~3/3)に合わせて、武者小路千家(官休庵)15代家元後嗣・千宗屋氏の記念講演会が館内講堂であり、楽しいお話を聞かせていただきました。
(参加は事前申込制で抽選150名とチラシにはありましたが、補助椅子が用意され、参加者は200名を遥かに超えていたようです。)

100分間もの長丁場を、写真を交えながら淀みなく言葉を紡がれたトークは圧巻でした。
言葉が天から降ってくるのか、地から湧いてくるのか、次から次へと繋がって行くのですから、お話はめちゃくちゃ匠(巧み)でした。

昨今話題の利休逐電説をイントロにして、利休が織部に渡した「泪の茶杓」の由来や「銘」に纏わるお話は興味深い内容でした。
最後の「茶杓は茶人の刀」に繋がるお話は、全く新しい視点で「なるほど!」と思わず膝を打ちそうになりました。

織部は茶杓を収めた黒塗りの筒に四角い窓を開けて、利休の位牌代わりに日夜拝んだといわれていますが、黒筒を縦ではなく横にして茶杓を前に置いたら、もう一つ別の姿が見えてくるというのです。(下図)

答えは「刀」、黒筒が鞘で、茶杓が刀身という見立てでした。

利休が切腹の時に使用したとも云われている短刀は、裏千家・今日庵に所蔵されているそうですが、短刀の鞘と刀身を横に並べて映し出された写真は、黒筒と茶杓を連想させるのに十分で、まさしく「茶杓は茶人の刀」と云われる所以を垣間見た思いがしました。

秀吉によって切腹を命ぜられた利休の茶杓を受け継いだ織部も、大坂夏の陣後に家康によって切腹を命ぜられ、茶杓を含めた道具類はそっくり徳川の物になり、その後に駿府御分物として尾張徳川家に伝来しているのですから、栄枯盛衰は常の事とはいいながら、「泪の茶杓」もまた時代の人を見続けてきたと云えるのかもしれません。

「銘」を付ける事は、その品物に「人格」を持たせる事、と以前聞いたことがあります。
「泪の茶杓」の「泪」は、利休の涙なのでしょうか、織部の涙なのでしょうか、それとも……。

銘の「泪」が何んとも絶妙であることを、あらためて感じ入った講演会となりました。

満ち足りた思いで美術館を後にして門へ向かう途中、隣接する「徳川園」の入り口近くで鉢植えの「寒牡丹」を見つけました。
美しいです!

もう一つ、カラタネオガタマの木に花芽が付いていました。
開花の時季に逢えれば嬉しいのですが…。