李絶杜律

『四字熟語辞典』(大修館)の中に【李絶杜律】(りぜつとりつ)という聞きなれない熟語がありました。
〔意味〕唐の詩人李白は絶句にすぐれ、杜甫は律詩にすぐれている。唐の二大詩人の特徴を簡潔に評したことば。

李白は字(あざな)が太白より李太白とも云われ、杜甫は字(あざな)が子美より杜子美とも云われています。

絶句と律詩については『日本国語大辞典』に以下の説明があります。(部分)
【絶句】一首が起・承・転・結と呼ばれる四句からなるもの。一句の字数によって五言(ごごん)絶句、七言絶句という。
【律詩】八句からなり、第三句と第四句、第五句と第六句が原則として対句となるもの。七言と五言とがある。

正直なところ、漢詩については全く馴染みがありません。(和歌も!)(^O^)
起承転結の絶句については、なんとなく詩形は解っているつもりですが、律詩となると全く縁が遠くなります。

香道の組香「聞書」の中には、漢詩がそれなりに出てきます。
漢詩が引かれている組香として、これまでの[詩歌をちこち]の中では【新月香】と【四季香】があったように思います。

【四季香】に引かれている漢詩は「四時歌」でした。

四時歌     四時(しいじ)の歌(うた)

春水満四澤   春水(しゅんすい)四澤(したく)に満(み)ち
夏雲多奇峰   夏雲(かうん)奇峰(きほう)多(おお)し
秋月揚明輝   秋月(しゅうげつ)明輝(めいき)を揚(あ)げ
冬嶺秀孤松   冬嶺(とうれい)孤松(こしょう)秀(ひい)づ

〔通釈〕春は水が四方の沢地に満ち満ち、夏は入道雲がすばらしい峰を形づくる。秋の月は明るく輝いて中天にかかり、冬枯れの嶺には、松の秀でた姿が目立つ。

出典は『石川忠久・中西進の漢詩歓談』(大修館)でしたが、これをアップしたのは3月中旬でした。
とても面白い本でしたし、両氏の博識ぶりにはただただ驚くばかりでした。
そして、4月1日に新元号「令和」が発表され、俄かに中西進氏に注目が集まりました。
偶然は必然とか云いますが、実に不思議な縁でした…。

※ムラサキツユクサ

詩歌をちこち 【杜律香】

春山無伴獨相求 伐木丁丁山更幽
澗道餘寒歷冰雪 石門斜日到林丘
不貪夜識金銀氣 遠害朝看麋鹿遊
乘興杳然迷出處 對君疑是泛虛舟

題張氏隠居    張氏(ちょうし)の隠居(いんきょ)に題(だい)す   杜甫(とほ)

春山無伴獨相求  春山(しゅんざん)伴(とも)無(な)く独(ひと)り相(あひ)求(もと)む
伐木丁丁山更幽  伐木(ばつぼく)丁丁(とうとう)として山(やま)更(さら)に幽(ゆう)なり
澗道餘寒歷冰雪  澗道(かんどう)の余寒(よかん)氷雪(ひょうせつ)を歷(へ)
石門斜日到林丘  石門(せきもん)の斜日(しゃじつ)林丘(りんきゅう)に到(いた)る
不貪夜識金銀氣  貪(むさぼ)らずして夜(よる)に金銀(きんぎん)の気(き)を識(し)り
遠害朝看麋鹿遊  害(がい)より遠(とお)ざかりて朝(あした)に麋鹿(びろく)の遊(あそ)ぶを看(み)る
乘興杳然迷出處  興(きょう)に乗(じょう)じて杳然(ようぜん)出(い)ずる処(ところ)に迷(まよ)い
對君疑是泛虛舟  君(きみ)に対(たい)して疑(うたが)うらくは是(こ)れ虛舟(きょしゅう)泛(う)かぶかと

 〔現代語訳〕春の山の中を連れも無く一人で張氏を訪ねて行った。木を切る音がかーんかーんと聞こえてくるので、いっそう深い山中に来た思いがする。冷気が残っている谷間の道の凍った雪の上を渡って、石の堰(せき)に夕日が当たる頃に木々の茂る君の住む丘まで来た。君には物欲がないのでかえって夜になると山に埋まっている金銀の気が立ちのぼるのがわかり、危難とは縁のない暮らしをしているので朝には鹿が安心して遊んでいるのが見える。興趣の湧くままに山奥深く入って帰り道がわからなくなり、君を見れば君は無人の舟が浮かんでいるかのように無心だ。

*出典『杜甫全詩訳注(一)』(講談社学術文庫)

※七言律詩
※同詩は『新釈漢文大系19 唐詩選』(明治書院)にもあります。

今日は二十四節気の一つ「小満」。
思えば、昨年は「小満はあっても大満はない」などという記事を、その日の勢いで書いたような覚えがあります。

暦を見ると、小満は万物が次第に長じて、天地に満ち始める頃とあります。
野山の緑は一段と濃くなり、麦の穂もみのりを迎える頃です。
先週、刈谷市の小堤西池のカキツバタを見に行った際、周辺の田に植えられていた大麦が風に揺れていて、思わず「麦秋だ~」と声が出てしまいました。
「麦秋」は、麦が実り熟する時季、初夏の頃で、旧暦四月の異称ともなっています。

七十二候では「蚕起食桑(かいこが桑の葉を食べるようになる)」。
たくさんの蚕(かいこ)が桑の葉を食べる時の「サワ、サワ、サワ、…」という音は、雨が降っているのではないかと思うほどの音といいます。
時代の流れでしょうか、桑畑を見かけなくなりました…。