詩歌をちこち【歌仙香】

「やまと歌は人の心を種として、万(よろず)の言(こと)の葉とぞ成れりける」で始まる『古今和歌集』仮名序において、紀貫之は「近き世にその名聞こえたる人は」として六人の歌人と歌を挙げて作風を評しています。
『新日本古典文学大系 古今和歌集』(岩波書店)から該当部分を一部引用します。

僧正遍昭は、歌の様(さま)は得たれども、誠少なし。たとへば、絵に描ける女を見て、いたずらに心を動かすがごとし。
浅緑(あさみどり)糸縒(よ)り掛けて白露を玉にも抜ける春の柳か
蓮葉(はちすば)の濁りに染(し)まぬ心もて何かは露を玉とあざむく
嵯峨野にて馬(むま)より落ちて詠める
名に愛(め)でて折れるばかりぞ女郎花(をみなへし)我おちにきと人に語るな

在原業平は、その心余りて言葉足らず。萎(しぼ)める花の色無くて匂ひ残れるがごとし。
月や有らぬ春や昔の春ならぬわが身一つは本(もと)の身にして
(他二首)……

以下、同様に文屋康秀(二首)、喜撰法師(一首)、小野小町(四首)、大伴黒主(二首)と続いています。

これら六人の歌人は、後に「六歌仙」と称され崇められています。

香道の組香には、六歌仙の歌を題材にして「六歌仙香」と「歌仙香」があるようです。
「六歌仙香」は、香種6、香包総数12、試香6、出香数2となっていて、比較的シンプルなことから教場や香会等でも催され、私自身も何回か経験したことがあります。

一方「歌仙香」は、香種6、香包総数32、試香0、出香数11となっていて、「六歌仙香」と比べると手が込んでいるからでしょうか、お目にかかったことはありません。
何よりも、用意する香包総数が32包と多いことが、選択上のネックになっているような気がしています。

【歌仙香】
◆香六種
一として 包で無試
二として 包で無試
三として 包で無試
四として 包で無試
五として 包で無試
客として 包で無試

◆聞き方・答え方
先ず、無試三十一包の内の一二三四五各二包の計十包を打ち交ぜて炷き出します。(無試なので十炷香と同じくつるびで答えます)
後出香として、残り一~五の二十一包を打ち交ぜ五包取り、是に客一包を加えた計六包を打ち交ぜ、内より一包だけ取って炷き出します。この一包が先出香または客のどれに該当するかを、六歌仙の歌の頭五文字で答えます。

この組香の趣向は、五・七・五・七・七の形式を踏んだ香包数と、一首しかない喜撰法師の歌を客一包に掛けた点にあると思います。

聞き方にあるように、全三十二包の内二十一包を捨てることになるやり方は無駄が多いように思いますが、敢えて三十一文字の和歌の形式にこだわった組香と云えそうです。(実質的には、一~五の各三包+客一包の計十六包で十分成り立ちそうな気もしますが…)

※公園の藤の花が咲いています。

久しぶりに「詩歌をちこち」です。

詩歌をちこち 【歌仙香】

《僧正遍昭》
①『古今和歌集』巻第一 春歌上 二七
| 西大寺のほとりの柳をよめる   僧正遍昭
あさみどりいとよりかけてしらつゆを たまにもぬける春の柳か
〔大意〕浅緑色の糸を撚(よ)り合せて、白露を玉として貫いている春の柳よ。
②『古今和歌集』巻第三 夏歌 一六五
| はちすのつゆを見てよめる 僧正へんぜう
はちすばのにごりにしまぬ心もて なにかはつゆを玉とあざむく
〔大意〕蓮葉が、泥水で育ちつつもその濁りに染まらない心をもちながら、どうして露を玉ではないかと思い誤らせるのか。
③『古今和歌集』巻第四 秋歌上 二二六
| 題しらず 僧正へんぜう
名にめでてをれるばかりぞをみなへし 我おちにきと人にかたるな
〔大意〕名前にひかれて折っただけのことだほんとに、おみなえしよ。わたしが堕落してしまったと人に言うなよ。

《在原業平》
④『古今和歌集』巻第十五 恋歌五 七四七
| 五条のきさいの宮のにしのたいにすみける人にほいにはあらでものいひわたりけるを、む月のとをかあまりになむほかへかくれにける、あり所はききけれどえ物もいはで、又のとしのはるむめの花ざかりに月のおもしろかりける夜、こぞをこひてかのにしのたいにいきて月のかたぶくまであばらなるいたじきにふせりてよめる  在原業平朝臣
月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして
〔大意〕月は、そして、春は、昔のままの月であり春であって、自然はやはり変らない。それに反して人は変っていくものなのに、どうしたことか取り残されたように、わたくしのこの身だけがもと通りの状態であって…。
⑤『古今和歌集』巻第十七 雑歌上 八七九
| 題しらず   なりひらの朝臣
おほかたは月をもめでじこれぞこの つもれば人のおいとなるもの
〔大意〕一般的な気持でいえば、月を賞美することはすまい。この月こそは、積り積ると人の老齢になるものなのだ。
⑥『古今和歌集』巻第十三 恋歌三 六四四
| 人にあひてあしたによみてつかはしける  なりひらの朝臣
ねぬる夜の夢をはかなみまどろめば いやはかなにもなりまさるかな
〔大意〕共寝致しました夜の夢のような不確かさがはかないので、その夢をもう一度しっかり見ようとしてうとうとしていると、ますます、まあ、不確かになって行くことですよ。

《文屋康秀》
⑦『古今和歌集』巻第五 秋歌下 二四九
| これさだのみこの家の歌合のうた   文屋やすひで
吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山かぜをあらしといふらむ
〔大意〕吹くとともに秋の草木がしおれるので、なるほど山風を「あらし」と言うのだろう。
⑧『古今和歌集』巻第十六 哀傷歌 八四六
| 深草のみかどの御国忌の日よめる   文屋題
草ふかき霞の谷に影かくし てるひのくれしけふにやはあらぬ
〔大意〕草深い霞の立ちこめるこの谷に、。日の光の君がお隠れになり、照り輝く太陽が昏(くら)くなった今日この日ではございませんか。

《喜撰法師》
⑨『古今和歌集』巻第十八 雑歌下 九八三
|    きせんほうし
わがいほは宮このたつみしかぞすむ よをうぢ山と人はいふなり
〔大意〕わが庵は都の東南で、その巽という名の通りに慎ましく住んでいるだけのことだ。ところが世間の人は「世を宇(憂)治山」と言っているそうな。

《小野小町》
⑩『古今和歌集』巻第十二 恋歌二 五五二
| 題しらず   小野小町
思ひつつぬればや人の見えつらむ 夢としりせばさめざらましを
〔大意〕繰り返し思っては寝ますのであの方があのように見えたのでしょうか。夢だと分っていれば覚めませんでしたのにねえ。
⑪『古今和歌集』巻第十五 恋歌五 七九七
| 題しらず   小野小町
色見えでうつろふ物は世中の 人の心の花にぞ有りける
〔大意〕色が見えていて変るものは花ですが、色が見えないで変るものは、世の中の人の心という花であることです。
⑫『古今和歌集』巻第十八 雑歌下 九三八
| 文屋のやすひでみかはのぞうになりて、あがた見にはえいでたたじやといひやれりける返事によめる   小野小町
わびぬれば身をうき草のねをたえて さそふ水あらばいなむとぞ思ふ
〔大意〕わび暮してきているので、わが身をつらく思っておりまして、浮草の根が切れて誘い流す水があれば流れ去るように、誘って下さる方があるなら都を去って行こうとそう思います。

《大伴黒主》
⑬『古今和歌集』巻第十四 恋歌四 七三五
| 人をしのびにあひしりてあひがたくありければ、その家のあたりをまかりありきけるをりに、かりのなくをききてよみてつかはしける  大伴くろぬし
思ひいでてこひしき時ははつかりの なきてわたると人しるらめや
〔大意〕あなたを思い出して恋しい時は、秋の初雁が鳴いて渡って行くようにわたくしが泣き泣き通っていると、あなたはご存知でしょうか。たぶんご存じありますまい。
⑭『古今和歌集』巻第十七 雑歌上 八九九
|  (題しらず)   よみ人しらず
鏡山いざ立ちよりて見てゆかむ 年へぬる身はおいやいぬると
この歌は、ある人のいはく、おほとものくろぬしなり
〔大意〕「鏡」という名のあの「鏡山」にさあ立ち寄って見て行こう。年月を経てきたわが身は確かに年老いているものなのかと。

*和歌出典『新編国歌大観』(角川書店)
*大意出典『新日本古典文学大系』(岩波書店)