露地はただ…

今日は(から)二十四節気の「大寒」。
一年で最も寒い頃と云われ、予報では来週中頃に最強寒波が襲来すると注意を呼び掛けています。
天明七年の『暦便覧』には、「ひゆることのいたりてはなはだしきときなればなり」とあります。

15日間の「大寒」最終日が「節分」。
明くる日は「立春」で、暦の上ではもう春です。
既に、陽射しは冬のものではなく、きらきら輝いているように見えるこの頃です。 (^^)

NHKEテレで放送中の「茶の湯 裏千家」は、毎回その道の職人さんが登場していて、作法の右左だけでなく茶の湯の周辺を知ることができるように工夫されています。
今週月曜日の第六回は、裏千家の露地を担っている庭師・小河正行氏が出演し、露地の目的・役割等について語っていました。
露地は茶事へ誘う為の庭として、引用された利休の歌が印象に残っています。

露地はただ浮世の外の道なるに心のちりをなど散らすらん

直訳すると、露地はただ浮世(俗世)の外の道であるのに、心のちり(欲望、外見などの雑念)を何故散らしている(のだろう)、と云ったところでしょうか。

ネット上に庭師・小河正行氏のインタビュー記事が載っていました。(部分)

「露地とは?」
🔳茶の湯の庭は「露地」と呼ばれています。露地に足を一歩踏み入れる時には、露地草履に履き替えます。これを履いていくことは「浮世とは切り離した世界がこの露地にはある」という意味になります。清浄な場所であり別世界。自然や打水を見ながら自分の心の塵を洗い流します。
茶の湯を大成させた千利休は「露地はただ浮世の外の道なるに心の塵をなど散らすらむ」と詠んでいます。塵とはつまり「あれがほしい」「ああなりたい」という欲ですね。露地を歩いていくなかで、自分の欲を無にすることが大事です。その一番象徴的なの場所が「塵穴」です。塵を捨てて、茶席に入りなさいという意味を持っています。」🔳(「明日への扉」106より)

歌の原文は茶書『南方録』の「滅後」にあります。(所謂「利休百首」にはありません)
手持ちの書物では、上記歌の「など」の所が「何」となっていますが、意味は「何故・どうして」で同じかと思います。

『南方録』がらみで一つ。
『南方録』の「覚書」にも載っている、所謂「三夕の歌」の一つは余りにも?有名です。

見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ 定家

この歌は、紹鴎がわび茶の湯の心として挙げたもので、組香「三夕香」の証歌にもなっています。

宗易(利休)は、今一首見出したりとして、家隆の歌を挙げています。

花をのみ待らん人に山ざとの 雪間の草の春を見せばや 家隆

「覚書」には、「常に二首を書き付け、信ぜられしなり」とあります。

※ふきのとう【蕗の薹】

雪こそありませんが、心持は同じ?です。 (^^)

因みに、今日は七十二候では「欵冬華(ふきのはなさく)」(雪の下からふきの花が咲き出る)でした。