雲隠

『源氏物語』五十四帖の「幻」の巻に続くとされている「雲隠」。
「雲隠」は巻名だけで本文はなく、光源氏の死を象徴していると云われています。
『源氏物語』五十四帖は、「雲隠」を除いて「若菜」の巻を「若菜上」「若菜下」の二つに分けて五十四帖とする場合と、「雲隠」を入れて「若菜」の巻を一つに数えて五十四帖とする場合とがあるようです。

現在では、一般的に源氏物語五十四帖と云えばもっぱら前者を指しています。
香道の組香「源氏香」でも、「雲隠」はなく「若菜上」「若菜下」となっていて、それぞれに縦線五本の源氏香図が添えられています。

今年の初め、名古屋・古川美術館に於いて「十六代永楽善五郎 源氏五十四帖茶陶展」が開催されました。(2月9日終了)
記憶・記録に留めたく、1988年の巡回展「永楽善五郎 源氏五十四帖茶陶と歴代展」の図録を入手し、パラパラとめくって眺めていたところ、四十一帖として黒楽茶碗・銘「雲隠」が載っていました。(一般的には、四十一帖は「幻」)
素晴らしい黒楽茶碗でした!

※黒楽茶碗・銘「雲隠」(焼きは樂覚入)

ならば…と遡ってみると、「若菜」の巻名は一つだけで、三十四帖「若菜」に因む黒織部写春草の絵茶碗がありました。

以降、「柏木」「横笛」「鈴虫」「夕霧」「御法」「幻」に因む作品が並び、四十一帖「雲隠」の黒楽茶碗となっています。

組香「源氏香」は、香五種各五包の計25包を打ち交ぜ、内から五包を取って炷き出し、それらの香りの異同を聞き分けて、香の図と巻名を記紙に記して答えることになっています。
昨年は、NHK大河ドラマで「光る君へ」が放送されたこともあって、各所で「源氏香」の香席が催されたり、源氏物語に関連する展示があったようです。

ところで、「源氏香」と答え方は同じですが、「雲隠」を意識したと思われる「源氏別式」という法が『香と香道』(雄山閣)に載っています。
専用の畳紙(たとう)六つを長盆に飾りますが、下段左下の畳紙を特に「雲隠」と云うとあります。

説明には「雲隠を除く五つの畳紙に、香包五包ずついれ、長盆に飾る。香元は、畳紙より一包ずつとり出して炷き出す。執筆は香包より出を記録に写し、五つの空包を雲隠の畳紙に入れる。記録は源氏香と全く同じである。」とあります。
中身のない空の雲隠の畳紙に、炷き出した後の空の香包五つを入れるなんて、遊びすぎ面白すぎです。 (^^)

令和4年に志野流松隠軒から発行された写真集『卯の花』にも、香包の項に「思羽包」と「源氏別式畳紙」の美しいカラー写真が載っています。(冊子『卯の花』は、同年の増上寺蘭奢待献香式、翌年の京都・細見美術館での展覧会で入手可でした)
「雲隠」の畳紙は如何にも雲隠を思わせるのに十分です。
なお、思羽包(おもいばづつみ)は五種五包計25包を交ぜて五包を取り出す際に用いる香具となっているようです。

「雲隠」ねぇ……、先人の遊び心にはつくづく脱帽です。

※公園のセツブンソウ【節分草】

外組17番【氷室香】

香五種
冬の名残として 二包に認め内一包試
消ぬ氷 として 右同断
杉の下風として 右同断
千年の夏として 二包に認め無試
ウ   として 右同断

右、試み香三種終りて本香七包のうち千年の香二包、客二包と合せて四包打ち交ぜ、内二包除き残り二包を結び合せ置く。一二三の香三包を打ち交ぜ炷き終り、次に右結び有る香を打ち交ぜ炷き出すべし。聞き様、試みに合せ名乗紙に書き付け出すべし。終りの二炷とも同香と聞くは松ケと書く。また二炷とも別香と聞くはつけのと書き付けるべし。記録認め様、左の図を見合考え認むべし。尤も後の二炷同香にてウウと出たらば聞きの当りは二点づつなり。又、ウウと出たるときは出香の下につけのの歌を一首書くべし。左のごとし。

つけののにおほ山守かをさめたる氷室そ今もたへせさりける

又、二炷同香にて千年の夏、千年の夏と出たらば松ヶ崎の歌を書くべし。

凍ゐてちとせの夏も消せしなまつか崎なる氷室とおもへは

別香のときは歌書くに不及なり。記録の面にて考うべし。左のごとし。

(記録例 略)

きろく是に順ずべし。

※氷室の場所「松ヶ崎」「つけの」については、志野流先代家元・蜂谷幽求斎宗由宗匠が某誌に寄稿された「香道の心得-葉月-」に触れてあるので、該当部分を以下に引用します。

「冬の名残り、消えぬ氷、杉の下風、千年の夏と称する香と、客(客が持参する特別な香)との五種類の香で構成される「氷室香」には、
掘河院御時百首和歌 仲実朝臣
つけののにおほ山守がをさめたる氷室ぞ今も絶えせざりける
こほりゐてちとせの夏も消えせじな松が崎なる氷室と思へば
の二首の証歌がある。
つげは大和国の東北部にあった国名で奈良県山辺郡都介野(つげの)村[今は都祁村、たゞし都介野岳という山がある]にその名を残している。仁徳朝(五世紀前半)にはすでにこの地に氷室のあった記事があり、それより諸国に氷室を設置した。この地と氷室とを結びつけて古来多くの詩歌によまれている。なお、三重県に同呼称の町、柘植(関西線と草津線との接点)があり、神戸市の鳥原貯水池の南側にはつが(都賀)野の氷室という似通った地名があるようだ。都介野との関連はどうであろうか。
松ヶ崎は今の京都市左京区の松ヶ崎町[下鴨の北・高野川の西]で景勝の地。やはり多くの和歌によまれている。松ヶ崎氷室の旧址は宝ヶ池の東、丈ヶ谷といわれている。この東方には小野氷室があった。叡山線の町名が残されている。鷹ヶ峰の北西、山間の栗栖野(西賀茂氷室町)も名高く、附近に氷室の用を説いたという闘鶏(つげ)稲置大山主を祭ってある氷室神社があり、氷室と称する川が流れている。ほかに土坂、岩前、徳岡、宇多などと京都にはさすがに著名な氷の室址が多い。こうした所から宮廷に献上されたのだが、新潟の小千谷のそれは富士山の雪と共に江戸将軍家の台所へ運ばれたとか。」