帛紗の大きさ

世阿弥の『風姿花伝』にも記されている「序破急」の文言に触発されて、能に関する一般向けの本を少し読んでみました。

その中の一冊、種田道一『能と茶の湯』(淡交社)は、親しみやすい文体で「能」をきちんと説明しながら、茶の湯との関わりも取り上げているという異色の本でしたが、とても面白く勉強にもなりました。

2002年発行の同書には、著者は能楽金剛流の職分家である種田家の四代目で、裏千家学園講師として能の講義を勤めていると略歴に記してあります。

コラム的に書かれた[千少庵と能楽師・宮王道三]の件には、新しい発見がありました。
帛紗の大きさに千利休の後妻・宗恩が関わっていたというもので、以下に該当部分を引用します。

利休が秀吉の小田原征伐に随行する時、宗恩は帛紗に薬を包んで利休の荷物に加えておきましたが、その寸法が茶器を扱うのに適していたので、それからはその寸法の帛紗を点前に使うことになりました。利休時代までは帛紗は今の古帛紗の寸法のものだけでありましたが、その四倍の帛紗ができたのです。

帛紗の大きさの由来など考えてもみなかったことで、全くの初耳です。(出典を知りたいところです!)

同書には、利休と後妻になった宗恩との経緯について、ざっと次の様に書かれていました。

戦国時代末期の能楽師・宮王大夫の長男の道三は能役者、末子の三郎は小鼓の名手で、千利休は謡曲を道三に習い、道三は茶道を利休に学んでいたという関係から、利休と宮王家とはとても親しかったようです。
同時に、利休は三郎の妻・宗恩の能・茶に対する見識の高さには一目置いていたようです。

三郎と宗恩との間にできた子が少庵(後の千家二代目・1546~1614)ですが、三郎が他界した時、少庵は三十歳頃だったとか…。

天正9年(1581)に利休の先妻が亡くなり、翌年には道三を親がわりとして宗恩を後妻に迎え、少庵は利休の養子となっています。
奇しくも、少庵は利休の実子・道安(1546~1604)と同年齢であったのですが、千家二代目は少庵が継いでいます。

そして、少庵の子の宗旦(咄々斎)が千家三代目を継承し、以後の三千家へと繋がっていったことはよく知られているところです。

なお、宗恩の親がわりとなった能楽師・宮王道三は茶人でもあり、宮王肩衝や宮王釜などの名品を遺しています。

(注)年号および西暦などは、同書記載によるものです。

裏千家流でよく用いられている古帛紗と、点前などに用いられる帛紗(袱紗)の大きさの関係について、初めて目にした同書の記述でした。

※宮王肩衝茶入(『茶道大辞典』より)

昨日は、名古屋美術倶楽部で催された7月・吉祥会に出かけてきました。
席主さんは、志野流の蜂谷なをみ氏。
お天気にも恵まれ、ゆったりとした穏やかなお席で、美味しいお茶を二服いただきました。
美濃忠のお菓子「風のいろ」は涼やかな青色の葛仕立のもので、その美味しさは勿論の事、香銘から引かれた菓子名に席主さんの心入れを感じました。(^O^)

風のいろ……、素敵な言葉です。