閑翁宗拙

10月8日、裏千家宗家において「若宗匠格式宣誓式」が行われ、次男敬史氏が家元から茶名「宗史」を、九條道成・明治神宮権宮司から斎号「丹心斎」を授けられ、次期17代家元として内外に広く宣言されました。
そして、翌9日には千家ゆかりの大徳寺聚光院で「若宗匠格式報告献茶式」が行われています。

代を継承する支度が整ったということは、伝統文化・伝統芸能の世界においては何よりも目出度いことと思います。

『茶道雑誌』10月号の記事の中に、元伯宗旦の長男・閑翁宗拙(かんおうそうせつ)が父から勘当され、晩年は正伝寺の塔頭・瑞泉庵に身を寄せて、そこで生涯を閉じたという一文が北村美術館館長・木下収氏の「折々の想い出」の中にあり、以前目にして印象に残っている井口海仙宗匠の著作物を思い出しました。
※元伯宗旦…千家三代目(1578~1658)。なお、表裏両千家分立は1648年。
※宗拙…宗旦の長男( ~1652)
※正伝寺…大徳寺の北方数Kmにある京都ゴルフ倶楽部(舟山コース)の近くの禅寺。
※瑞泉庵…廃寺。
※井口海仙…裏千家十四代淡々斎宗室の弟。(1900~1982)

宗旦には四男一女、即ち、先妻との間に長男(宗拙)と次男(宗守)が、後妻との間に三男(宗左)、長女くれ(久田宗利室)、四男(宗室)がいました。
先妻との子である長男(宗拙)は勘当され、次男(後に宗守として武者小路千家・官休庵を構える)は塗師として、共に千家を出ています。
結局、後妻(宗見)との子である三男が宗左として表千家を、四男が宗室として裏千家の家督を継いでいます。

それぞれに経緯があったのかもしれません。

長男(宗拙)が勘当されたという理由ははっきりしていないようです。
井口海仙宗匠の著作には以下の見立てがしてあります。
一、茶道についての父子見解の相違。
二、義母すなわち宗旦の後妻(宗見)との不円満。
三、放蕩の結果。

しかしながら、三つとも確たる証拠、裏書きする資料はないと記してあります。

『井口海仙著作集』に収めてある「千宗拙と正伝寺」には、宗拙の茶風や墓石探索などについても記してあります。

昭和28年に、裏千家・井口海仙宗匠、樂吉右衛門氏(覚入)、建築研究家・中村昌生氏、表千家・即中斎宗匠、高木四郎画伯、茶道月報社・伊藤高勝氏、そして正伝寺住職等によって宗拙の墓石探索が行われ、無事発見されています。
手に持てるほどの小さな墓石には「閑翁宗拙禅定門位」と彫られていたそうです。

※『茶道雑誌』10月号掲載の写真。

それにしても、家督を継ぐということは大変なことです…。

紀伊ジョウロウホトトギス【上﨟杜鵑草】が満開です。