2月28日

今日で2月も終わり、明日から3月。
3月の声を聴くと、景色も気分もすっかり春です。(^^)

福寿草も花開きました。

今朝のNHKラジオでアナウンサーが「今日は何の日?」と言っていました。
挙げていたのは、ビスケットの日、バカヤローの日、あさま山荘事件の日。

ビスケットの日?

ネットで検索すると、他の項目も含めて、謂れや事件についての詳しい解説がありました。

ラジオでは、特にあさま山荘事件について、当事者の回想と御厨貴氏の解説が核心をついていて聞きごたえがありました。
50年前の事件です。

個人的には、2月28日と云えば千利休が自刃した日。(旧暦ですが…)
三千家では月遅れの3月27・28日に利休忌が営まれています。

先日のNHKTV「英雄たちの選択」でも、「戦国ミステリー 千利休はなぜ死んだ?」と題して、千利休の自刃について議論が交わされていましたが、自刃に至る記録が残っていないことから、いろいろ推測は出来るものの、結局のところ謎となっているようです…。

今日の朝日新聞「天声人語」の書き出しは、なんと2月28日利休忌からでした。
長くなりますが、全文を引用します。

2月28日は利休忌である。茶人、千利休が70歳の生涯を閉じた旧暦のその日に春の穏やかさはなく、大雨と雷の荒天だったと伝えられる。二人三脚で歩んできた豊臣秀吉から蟄居させられた末、切腹を命じられた▼「侘び茶」の印象のため忘れそうになるが、利休が生きたのは戦乱の世だ。ときの覇者である織田信長、そして豊臣秀吉に仕え、茶事を司った。なのに、なぜ死を命じられたのか▼表向きの理由は、寺院の山門に利休が自分の木像を置いたのが無礼だというものだ。しかしそれだけではないはずだと、後世いくつもの説が取りざたされた。娘を秀吉の側室に出すのを拒んだ。秀吉のもくろむ朝鮮出兵に反対をした……。おそらく永遠の謎だろう▼重要なのは、その死が天下統一の実現した時期に起きたことだと歴史学者の池上裕子(ひろこ)さんが指摘している。(『織豊政権と江戸幕府』)「内々の儀は宗易(利休)が存じている」との言葉が残るように、秀吉に密かに話を取り次ぐ役割も利休は果たしていた。そんな政治のやり方を脱し、石田三成ら若手官僚が前面に出たのが統一後の政権だった。▼強固な統一体制のもと秀吉は明(みん)の制服をめざし、その前段階として朝鮮に出兵した。当時の国際関係の現実を無視した行動だったが止める者はいなかった。自軍に、そして何より朝鮮の人々におびただしい死をもたらした▼専制君主の暴走が止まらなくなる。戦乱期の日本に限らないことが最近のニュースから痛いほど伝わってくる。