反魂塚・阿波手の森

香道一口メモは「反魂塚」。

物語の舞台となっている海部(あま)群甚目寺町萱津(現在、あま市)へは先日出かけ、萱津神社と正法寺を歩いてきました。

萱津神社は「萱津神社由緒」に記されているように、昔、阿波手の社(やしろ)ともいわれ、和歌で知られた阿波手(あわで)の杜(もり)に祀られていた古社です。

※阿波手の杜・萱津神社

由緒には、日本武尊(やまとたけるのみこと)が当地で妻の宮簀姫に逢えなかったことから「不遇(あわで)の森」と呼ばれるようになったとか、また尊が植えた雌雄二本の榊が「連理の榊」として御神木となったとか、さらには村人が漬物を差し上げたところ尊は「藪に神物(こうのもの)」と仰せられ、この言葉が今日の漬物を表す「香の物」の語源になったとか、いろいろな伝説が記されています。

また、当時は「阿波手の森」の近くまで海が迫っていたようで、「阿波手の浦」が歌にも詠みこまれています。後世には干拓されて田畑に変わりましたが、川の氾濫による浸水被害は多かったようです。

鎌倉街道に面している正法寺(曹洞宗正法禅寺)は古くからのお寺です。

※左脇の石柱には「不許葷酒入山門」とあります。(^O^)

墓地にある「反魂塚碑」を写真に収める事ができて訪れた甲斐がありました。

香道一口メモ・113【反魂塚①

奈良時代の伝説。今の福島県信夫の地に恩雄と藤姫という若い夫婦がいた。藤姫の父は橋本中将といい、左遷が許された時、この地に姫を残して都に帰った。成人した姫は、父恋しさに夫と上って行く途中病気になり、悲しくも帰らぬ人となった。この地が今の愛知県甚目寺町萱津。夫は仏門に入り、妻の塚の辺りに庵を結び、日ごと、香をたいて回向した。

※信夫(しのぶ)…福島市の南部に昔あった村。
※恩雄(やすたか)と藤姫(ふじひめ)…恩雄二十一才、藤姫十六才。

※反魂塚…『尾張名所図会』(天保15年)によると、阿波手の森・萱津神社前の五条川堤防下にこんもりと塚が描かれ「反魂塚」と記してあります。


・楕円形で囲ったところが「反魂塚」
・図中、上方に見える橋が「法界門橋」で、橋を渡った所にあるのが「一の鳥居」と思われます。左下に見えるのが阿波手の森で、現在は萱津神社その他があります。

※反魂塚碑…昭和5年頃?に石碑「反魂塚碑」は塚の上に建てられたようです。しかし、2000年の東海豪雨水害後の護岸工事に伴なって、石碑は近くの正法寺墓地に移されています。

・正法寺墓地の「反魂塚碑」

・碑文は、正五位・岡部譲(熱田神宮宮司、伏見稲荷大社宮司を歴任した国学者:1849-1937)によるもので、「親おもひ深かりし子の魂を いまの世人の上に返さむ」と読みましたが…。

・石碑が建てられた年は、正法寺縁起にかかれている物語が寶亀十一年=780年となっていること、そして石碑には壹千百五拾捻記念と刻まれていることから、単純に780+1150=1930年、即ち昭和5年と推測しました。