雨水です。

今日は二十四節気の「雨水」。
文字通り、東海地方は朝から雨模様の一日でした。

暦を見ると「いままで降り積もった雪や氷が解け始め、また降る雪も雨に変わる頃」とあります。
一日、また一日と春が近づいて来る、そんな季節の節目と云えそうです。

昨日の名古屋・豊国神社の月釜は天神さんがモチーフのお席で、道真に纏わるお話も弾んで楽しいお茶会でした。
今日も天神さんの像が床に掛かり、約一名は久しぶりに大徳寺重を盛りつけ、「雨水」の日を楽しんだようです。

詩歌をちこち 【三夕香】

|『新古今和歌集』巻第四 秋歌上 361
| 題しらず  寂蓮法師
さびしさはその色としもなかりけり 槙立つ山の秋の夕ぐれ

〔大意〕この寂しさは特にどこからというわけでもないことだ。真木の生い立つ山の秋の夕暮よ。

===

|『新古今和歌集』巻第四 秋歌上 362
|        西行法師
こころなき身にもあはれはしられけり しぎたつ沢の秋の夕暮

〔大意〕あわれなど解すべくもないわが身にも今それはよく分かることだ。鴫の飛び立つ沢辺の秋の夕暮よ。

===

|『新古今和歌集』巻第四 秋歌上 363
| 西行法師すすめて、百首歌よませ侍りけるに  藤原定家朝臣
見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとま屋の秋の夕暮

〔大意〕見渡すと花も、紅葉もここにはない。海辺の苫屋の並ぶ秋の夕暮よ。

*和歌出典『新編国歌大観』(角川書店)
*大意出典『新日本古典文学大系』(岩波書店)

※定家の歌は、茶書『南方録』の「覚書」の中にも見ることができます。

わび茶の心はこの歌の心にありとして、紹鷗は定家の歌「見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ」をあげ、宗易(千利休)は今一首見い出したとして家隆の歌「花をのみ待つらん人に山ざとの 雪間の草の春を見せばや」を加えています。

確かに、一首より二首の方がイメージに拡がりが生じて、より相応しいような気がします……。

定家の歌は上記「三夕の歌」の一つとして知られています。
家隆の歌は『六百番歌合』&『壬二(みに)集』に載っているようです。