「泪」と「ゆがみ」
名古屋・城山八幡宮の月釜「洗心茶会」に行ってきました。
席主さんは、三斎流・森山宗甫氏と志野流・蜂谷なをみ氏のお二人。
三斎流のお席の床に掛かっていたのは、建仁寺・竹田黙雷老大師の一行「松無古今色」。
味わいのある隷書体の文字でしたが、「無」はめちゃくちゃ難しい字(大の両脇に廿を二つ、下に亡、更に下に林のような字?)で、加えて「今」は左右反転の文字でした。
三斎流のお席で、利休が切腹に際して削った茶杓二つ(「ナミダ」と「ゆがみ」)の内の一つ「ゆがみ」(別銘:イノチ)についてのお話がありました。
「ゆがみ」は細川三斎に渡されていますが、大名・細川三斎は利休との深い関連を秀吉に疑われないように、その茶杓を目立たぬよう普通の日用品のように置いていたとか…。
茶杓「ゆがみ」は永青文庫所蔵品として、今でも永青文庫HP上で筒と共に姿を見ることが出来ます。
ところが、『原色茶道大辞典』(淡交社)の「ゆがみ」の項には、昭和十六年大徳寺利休三百五十年忌茶会に真珠庵庭玉軒で用いられたが、昭和二十年に戦災で焼失したと伝える、と記してあります。
どっこい! 茶杓「ゆがみ」はちゃんと生き延びていたのです!(^O^)
志野流のお席の掛物は、大徳寺190世天室宗竺筆「梅柳渡江春」。
杜審言の詩「早春遊望」の一句で「梅柳(ばいりゅう)江(こう)を渡って春なり」と読むようです。(江は揚子江)
下蕪の古銅花入に入れられていたマンサクと小振りの椿が見事でした。
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名古屋・徳川美術館で「尾張徳川家の雛まつり」特別展が開催されています。(~4月5日)
※美術館ロビーの雛飾り
昨日から千利休「泪の茶杓」の特別公開が始まっています。(2月22日~3月3日)
利休が切腹に際して削った茶杓二つの内の一つで「ナミダ」と銘して古田織部に与えられたという茶杓です。
古田織部は黒筒に窓を開け、利休を偲んで日夜拝んだとも伝えられていますが、茶杓は細身で、色合いからして時代を経てきたことがよく解ります。
昨日は「泪の茶杓」特別公開に合わせて記念講演会が美術館で催され、聴講してきました。
講師は大日本茶道学会会長・田中仙堂氏で、流派の始祖田中仙樵から数えて三代目に当たる会長です。
「利休の栄光と挫折」と題する講演で、利休が天正十九年(1591)に表舞台から姿を消した理由を「武家官位と家格が秀吉政権によって創始された」という観点から、秀吉に重用された利休が遂には追い払われるに至った経緯を、織田信長の時代から史実に基づきながら解き明かしていこうというものでした。
秀吉が「茶の湯」を権威・権力への服従の道具として利用したのに対し、利休は「茶の湯」を人と人との心の在り方・人間関係の道具に変えようとしたことで確執が生じ、遂には利休は表舞台から消えることになったのでは……、と云う印象を受けました。
前者の究極が「黄金の茶室」であり、後者の行きついた先が草庵の「二畳の茶室」ではなかったのかと勝手に想像しています。
利休は天正十九年の旧暦二月二十八日に切腹したというのが定説となっています。(異説はありますが…)
三千家では毎年、月遅れの3月27・28日に「利休忌」が営まれているようです。