「八重垣」②
今日から6月。
暦を見ると、今日は七十二候の「麦秋至(むぎのあきいたる)」。
麦が熟して畑は黄金色になり、麦の刈り入れどきとなるようです。
麦の収穫時に実りの意味合いの秋を結びつけた言葉「麦秋」には、何とも言えない風情を感じます。
「水無月」は旧暦六月の異称。(新暦6月にも用いますが…)
「な」は「ない」の意に意識されて「無」の字があてられるが、本来は「の」の意で、「水の月」「田に水を引く必要のある月」との説明が『日本国語大辞典』にありますが、旧暦六月は新暦の7月以降でほぼ梅雨明け後になることから「水の無い月」という意味合いから「水無月」の名がついたとの説もあるようです。
旧暦六月の異称としては「風待月」「晩夏」などもありますが、個人的に最も印象深いのは「林鐘(りんしょう)」でしょうか。
以前、某お茶会で拝見した茶杓の銘が「林鐘」で、いたく感動した覚えがあります。(ただ、知らなかっただけ?)
庭のオカトラノオ【岡虎尾】が小花を密生させています。
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細見美術館で開催されていた特別展「香道志野流の道統」(3月4日~5月31日)は昨日終了しました。
期間中の3月18日には、銀閣寺・東求堂において20代家元・蜂谷幽光斎宗玄宗匠によって足利義政像に六十一種名香「八重垣」が献香されています。(3月18日は志野宗信の命日)
どうやら、名香「八重垣」は流祖・志野宗信と香で繋がる特別な香木のようです。
足利義政が文明8年(1486)に東求堂(持仏堂)を建立した際に、志野宗信は名香「八重垣」を同じ場所で炷いたと云われています。
近いところでは、平成21年(2009)に家元松隠軒で催された「平成の名香合」の前に、家元と若宗匠は東求堂に赴き、名香合わせの成功を誓って「八重垣」を足利義政像に献香(供香)されています。
※NHKTV「平成の名香合」より
従って、3月18日の流祖・志野宗信五百年遠忌の献香も、香木は必然的に「八重垣」ということになるのでしょう。
「八重垣」を炷くことで、500年もの隔たりを一瞬にして超え、流祖・志野宗信、そして東山殿・足利義政公と時空を同じくすることができるのかもしれません。 (^^)
名香「八重垣」については、『香銘大鑑』で次のような解説がなされています。
「幾重にも作った垣根。この香、半ばまでは良い済んだ伽羅立ちだが、半ばより匂い濁るということから八重垣と名付く。その意は、「八雲立つ出雲八重垣つまこめに八重垣つくるその八重垣を」の歌の読み方で、上の句の八重垣を澄んで読み、下の句の八重垣を濁りて読むことから。」
そして、木所は伽羅、味は苦鹹(甘辛酸苦)となっています。
上記の歌は、奈良時代の歴史書『古事記』の中にあり、わが国の和歌のはじめと伝えられています。
八俣(やまた)の大蛇(おろち)を須佐之男命(すさのおのみこと)が退治するお話の中に出てくる歌です。
夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曽能夜幣賀岐袁
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
流祖・志野宗信と繋がる縁として、名香「八重垣」を東求堂で手向けることは、唯一無二、必然としか言いようがありません。
「八重垣」は東求堂でしか炷けない香木と云えそうです。 (^^)
(付)
【東求堂】/出典『旺文社日本史事典三訂版』
京都市慈照寺にある建物の一つ。足利義政の持仏堂で,仏間と書院をもつ。1486年建立。名は「東方の人念仏して西方に生ぜんことを求む」の語による。書院は同仁斎(名は「聖人一視而同仁」の語による)と呼ばれ,四畳半で付書院と棚をもち,四畳半茶室のはじめとされる。