詩歌をちこち最終回「海月香」

昨日は(から)二十四節気の「大暑」。
文字通り、一年で最も暑い時季にあたります。

梅雨が明けた途端、予想通りの猛烈な暑さで連日30℃超えの真夏日が続いています。

体力を消耗しないように、昼も夜も適切に?エアコンのお世話になっています。

※公園のアベリア

大寄せのお茶会やお香会の開催が難しくなってから、早や一年半が経ちました。
生活のサイクルの中に組み込まれていた各行事や寄合の予定が無くなり、いそいそと出かけなくなったのに合わせて、熱意の方も以前ほどには上がらず、冷静に眺めている自分がいる現実に少なからず危機感を抱いています。

数年前から、ネットやSNSで積極的に物事を発信できる時代になっています。
コロナ禍の下で、伝統芸能・伝統文化の世界でも種々の取り組みが始まっているようです。
新聞の特集記事にコメントしたり、お点前の動画を流したり、ZOOMを活用したオンラインイベントを催したり、ウェビナー講座を開いたり、関連する人々と意識的にコンタクトを維持するような営業?努力が続けられているようです。

私自身、努めてアンテナを高くして、そうした情報・行事をキャッチできるように心がけています。
当ブログでも、可能な範囲内で発信できればと思っています。(^^)

香道の組香に引かれている漢詩・和歌の出処を探して、以前「詩歌をちこち」と題したシリーズをアップしてきました。
出典探し自体はコロナ禍の前に終わっていて、2019年から当ブログ上にアップしてきました。

2019年1月30日の「宇治山香」から2020年1月19日の「大和三山香」まで、ほぼ一年間にわたり漢詩・和歌の出典を取り上げましたが、ちょっとした思惑から、外組の「海月香」「歌集香」「歌仙香」「新慶賀香」の四つの組香はスキップしてきました。(実は、面倒だっただけ!?)

それでも、思い出したように「歌集香」は2020年3月11日に、「新慶賀香」は2021年1月18日に、「歌仙香」は2021年4月14日に取り上げ、残るは「海月香」のみとなっています。

今回、最後のピース「海月香」を取り上げることにより、「詩歌をちこち」シリーズは完結です。
これで、シリーズで取り上げた和歌は198首、漢詩は73句ということになります。

詩歌をちこち 【海月香】

|『拾遺和歌集』巻第三 秋 一七一
 屏風に、八月十五夜池ある家に人あそびしたる所  源したがふ

水のおもにてる月浪をかぞふれば こよひぞ秋のもなかなりける

〔大意〕小波が立つ池の水面に照り映っている月を見て、月日の数をかぞえてみれば、今宵は秋の最中の八月十五夜であったよ。

*和歌出典『新編国歌大観』(角川書店)
*大意出典『新日本古典文学大系』(岩波書店)
※源順(みなもとのしたごう)

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團々離海嶠  團々(だんだん)として海嶠(かいきょう)を離(はな)れ
漸々出雲衢  漸々(ぜんぜん)として雲衢(うんく)を出(い)づ
今宵一輪満  今宵(こよい)一輪(いちりん)満(み)てり
清光何處無  清光(せいこう)何(いづ)れの處(ところ)にかなからん

(注)
団団…月などのまるいさま。
漸々…段々と。
雲衢…雲の行き来する所。

〔メモ〕
上記の漢詩は謡曲「三井寺」の中に見ることができます。

『謡曲大観』第五巻(明治書院)所収「三井寺」の中の該当部分です。

團々離海嶠
冉々出雲衢
此夜一輪満
清光何處無

※冉々(ぜんぜん)
なお、頭注には、賈島(かとう)の詩とあります。

〔本文〕
(シテ)今宵の月に鐘撞くこと。狂人とてな厭(いと)ひ給ひそ或詩に曰く。團々として海嶠を離れ。冉々として雲衢を出づ。この後句なかりしかば。明月に向って心を澄まいて。今宵一輪満てり。清光何れの所にかなからんと。この句をまうけてあまりの嬉しさに心乱れ。高楼に登って鐘を衝く。人々いかにと咎めしにこれは詩狂と答ふ。かほどの聖人なりしだに。月には乱るる心あり。ましてや拙き狂女なれば。(地)許し給へや人々よ。……

〔脚注〕
(母)今夜の月の面白さに鐘を撞かうとするのを、気違ひだからといって、け嫌ひをなさるものではありません。昔或詩人が『丸々とした月が海辺近い山から出て、だんだんと空に昇って来る』といふ詩句を作ったが、その後の句が出来なかったので、明月に向って心を澄ましてゐると、『今夜の月は実に丸々してゐる。この清らかな光の到らぬ隅はないだらう』といふ句が浮かんで来ました。その嬉しさの余り、心が乱れ、高楼に登って鐘を撞きましたので、見ていた人々が『どうしたのだ』と咎めますと、『これは詩狂だ』と答へました。あれほどの名人でも、月には心の乱れるものです。まして私のやうなつまらない狂女のことです。どうそお許しください。

上記の漢詩は賈島の詩とありますが、『全唐詩』上・下(上海古籍出版社)の中には見当たりませんでした。(^^)

さて、四句目にある「清光何處無」は、「清光無何處」との記述も古書にはあります。
清光(せいこう)何(いづ)れの處(ところ)にかなからん

漢文の読み方からすれば、後者の「清光無何處」の方が理にかなっているように思われます。
しかし、文字の並びからすると、3句目最後の「満」に対して、四句目最後は「無」にした方が調子が良いのかもしれません。

まぁ、目くじらを立てることではないのかもしれません。
いろいろあるのが、この世界の常?でしょうから…。

「詩歌をちこち」最後の詩歌でした。(^^)