付けて干す「付干(つけぼし)」

茶の湯・風炉の初炭手前では、最後に香木を炷くのが習いとなっています。
香には、部屋の空気を、更には心身を清浄にする働きがあるとされています。(^^)

風炉の時には、塗り物や木地の香合に白檀の角割を三片入れておき、二片を炷いて残り一片は拝見に出すというのが一般的かと思います。
香木の炷き方(置き方)は茶道流派によって異なっていて、裏千家では二片の内一片は風炉の熱灰の上に、もう一片は胴炭の上に置くのが習いとなっているようです。

使用する香木は、白檀の角割が矢張り多いように思いますが、沈香や伽羅(きゃら)の角割を用いる場合も勿論有りです。
香木店のカタログを見ると、種々の香木を初めとして、伽羅、沈香、白檀などの角割が用意されています。

勿論?私どもが使用するのは専ら白檀の角割ですが…。(^^)

茶の湯で炷く香について、MIHO MUSEUM館長・熊倉功夫氏が『同門』8月号に寄稿している「近衛家の人びと」の中に、面白い記事が載っていました。
江戸中期の公卿・近衛家煕の言行を侍医・山科道安(やましなどうあん)が筆録した『槐記(かいき)』中のお話です。

予楽院こと近衛家煕(1667~1736)は、書、画、和歌、茶道、華道、香道に通じ、博学多彩なことで知られている人物です。
『槐記』から引用されたお話は、享保十四年(1729)二月十八日、珍しく宗旦の話が出た件で、熊倉功夫氏の現代語訳で記してあります。
因みに、宗旦は千家の三代家元で、「乞食宗旦」と揶揄されるほど生活は清貧であったと云われています。(1578~1658)

「今の人は風炉の茶で、伽羅を炷かないのは、おかしなことだ。寺田無禅がいつもする話でこんなことがある。宗旦が近衛信尋(応山)をたずねた時、応山公が宗旦に、風炉の茶はどのくらいしているか、と尋ねた。宗旦は、もうこのごろは一、二度ぐらいしかできません、という。風炉の炭に炷く伽羅がなくなりましたので、と申し上げたものだから、それならば、と伽羅を宗旦に下さったという。宗旦ほどのわび茶人でも風炉には伽羅を炷いたものである。今の人は古金襴のような上等な裂はもてはやすくせに、伽羅をつけ干しに代えてしまうとは何ということだ。」

風炉の茶で炷かれていた伽羅がどの様な物であったかは分かりませんが、ピンキリとは云っても既に伽羅はとても高価でしたから、宗旦が容易に手に入れられるような品ではなかったことは十分想像されます。

当時の伽羅事情については、森鴎外の短編小説『興津弥五右衛門の遺書』にある細川家と伊達家の伽羅争奪にまつわる話からもうかがい知ることができます。(未読の方には是非一読をお勧めしたいと思います。)

それにしても「伽羅をつけ干しに代えてしまうとは何ということだ」の一文には驚きです。
当初は伽羅が普通に使われていたのに、高価になった故、つけ干しに代えざるを得なかったように読み取れます。

確かに、現在でも伽羅は高価です。(^^)

実は、つけ干しが宗旦の時代からあったなんて、今回初めて知ったことです。

「つけ干し」については、志野流香道の先代家元・蜂谷幽求斎宗由宗匠の随筆中に「付干」があったことから、いたく興味を持ち実際に試作もしてみましたが、宗旦の時代からあったとは浅学の身には思いもよらないことでした。

なんと、なんと…、です。(^^)

なお、付け干しの試作については、2018.01.26付のブログ記事「付干(つけぼし)の作り方」に記したことであります。
振り返って再度見てみると、あの頃はめちゃくちゃ元気でした!(無謀なことでもありました!)(^^)

ところで、『槐記』の元本には予楽院のお話はどのように記してあるのでしょうか。

国立国会図書館デジタルコレクションには『槐記』の写本(活字本)が公開されていて、ダウンロードすることも可能です。
漢字とカタカナで記してあり、読みやすい写本となっています。