奥の井・沖の井・沖の石

今日は旧暦の十月一日。
旧暦十月は「神無月」にあたり、全国の神様が出雲大社に集まる月と云われています。
出雲大社では「神在祭」の神事が行なわれ、この地方では旧暦十月は「神在月(かみありづき)」となっています。(幸せ~)

神無月の他に、旧暦十月の異称として、小春、初冬などはよく聞くところです。
二日後の7日は二十四節気の「立冬」、いよいよ冬の始まりです…。

香道の組香に「陸奥(みちのく)名所香」があります。

伝書によると、陸奥の名所20か所が札の表・裏に用いられているようです。
江戸時代に創作されたと思われる組香なので、当時の名所が現在もそのまま残っている所もあれば、景色が変わったり消滅している処もあるに違いありません。

札の表にある名所で、よく分からなかったのが「奥の井」。
検索してみると、興井(おきのい)、沖の井、沖の石は散見されますが、名所としての「奥の井」は見当たりません。

個人的に気になっているのは、「奥」の崩し字と「興」の崩し字が似ていることです。
伝書は書き写したものですから、文字の読み違い、思い違い、写し違い、筆のそれがあっても不思議ではありません。

「興井」でネット検索してみると、宮城県多賀城市の文化財として「正宗が育んだ”伊達”な文化」「構成文化財31 興井(おきのい)」に写真と説明が載っていました。

URLはこちら→ http://datebunka.jp/cp/31/

「沖の井」や「沖の石」とも呼ばれ、古くは『古今和歌集』小野小町や、『千載和歌集』二条院讃岐などが和歌に詠んだ歌枕ゆかりの地です。仙台藩準一家天童氏の屋敷があった八幡村の民家の一角に位置しており、松尾芭蕉の『おくのほそ道』の旅に同行した曾良は、興井が民家の裏手にたたずんでいることを記しています。仙台藩による名所旧跡整備の一環として、4代藩主伊達綱村は、地元の有力者を「奥井守」に任命し、諸役を免除する代わりに興井を手厚く保護させました。

「興井」を保護するために「興井守」ではなく「奥井守」を任じたとあり、歴史的にも「奥井」の記述があったことが伺われます。

「奥の井」「興井(おきのい)」「沖の井」「沖の石」の全てがOKのようです。(^^)

上記解説にある小野小町と二条院讃岐の歌は次の通りです。

おきのゐて身をやくよりも悲しきは 宮こしまべのわかれなりけり 小野小町・古今1104
わが袖は汐干に見えぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし 二条院讃岐・千載760

『日本風俗名所図会1』(角川書店)に収めてある『奥州名所図会』に「興の井」の図があります。(同書には、陸奥名所香に出てくる名所が数多く載っています。)

●興の井は、やはた町の南、農家の背戸にあり。池水に満干ありて、水草多く、夏日なほ佳興なり

「陸奥(みちのく)名所香」に出てくる札の表・裏の名所については、またの機会にしたいと思います。(^^)